そういえば初めて葬祭業者になった頃、不可解な言葉だらけの連続だった。
宗教儀礼雑誌がいろいろとありますが、本当は聞きたい事柄が言葉で言い表すとなんと表現するのか不明で、
聴きたい所へたどり着けない場合があります。 そんな時、以下に列記した言葉が少しは役に立つかな。
ここに記載してある用語の殆どは、発行 株式会社 表現社著者 碑文谷 創 氏 著書『葬儀概論』より引用。
このような言葉の意味を、こう説明して欲しいなどのご意見はこの下のフォームで送ってください。

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インターネット上の宗教用語辞典 私では解らない事は、ここで聞いてね。
臨済宗 保壽院
セキセー産業株式会社

解説必要用語50傑。(順次増加予定)

R棺[r-kan]
彫刻棺、インロー棺など 表面に彫刻が施された彫刻棺には、二面彫刻、三面彫刻、四面彫刻、五面彫刻、さらに機械彫りか手彫りかの区別があります。
蓋に対面用の窓がついた棺、また、遺体衛生保全(エンバーミング)処置した遺体をよく見せるため、蓋の半分を外して透明なプラスティックの覆いをつけた棺などもあります。蓋部分に丸みをもたせた棺は、その形状から「R棺」と名づけられおります。 
その他にも、本体と蓋の組み合わせを印籠にならった「インロー棺」など多彩な棺があります。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.142

 後飾り[atokazari]
 火葬場から遺骨が戻って安置できるように後飾り(中陰壇)をします。
 後飾りは、小机に白布をかけ、三具足(燭台、香炉、花立て)に遺骨、位牌、写真が載せられるようにするのが一般的です。 一般的な後飾りは次のようになります。 上段に遺骨を置き、その前に位牌、下段に遺影を置きます。遺影の前には、中央に香炉、向って右に燭台と鈴、左に花立て、両サイドに供物を置きます。湯のみに水を入れ、位牌の前に置くことがあります。後飾りの周囲には葬儀に使用した生花や供物を整理して適宜並べます。  生花や供物は部屋の大きさに合わせて整理するとよいでしょう。
 後飾りする場所は仏間であれば仏壇の前か横、あるいは居間の床の間などが選ばれます。床の間などの場合、後ろ十三仏の掛け軸をかけることがあります。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.113

遺 言 [igon]
「遺言」は通常「ゆいごん」と読みますが、法律的には「いごん」と言います。自らの財産などを自らの死後どうするかについて生前定めておくことを言います。「葬儀はこのようにしてほしい」などと遺言に書いても法律的には無効ですが、このような法律的には無効な内容が書かれてあっても遺言自体が無効になるわけではありません。
 遺言と似たものに「遺書」がありますが、法律的には大きな違いがあります。遺書も本人が書き残すもので、その内容は本人の遺志として尊重されるべきものでしょうが、法律的には効力をもちません。これに対して遺言は、有効となる内容と形式が全て法律で定められているものです。 遺言として法的に有効なのは主として財産に関する事項ですが、その他、相続人を廃除したり、子の認知をしたり、未成年者である子の後見人、後見監督人を定めたり、遺言の執行者を定めたり、祭祀承継者を指定したりすることもできます。
 遺言できる人は満15歳以上で(民法第961条)、また、夫婦など複数の者が同一内容の遺言を同一証書ですることはできません(民法第975条、共同遺言の禁止)。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.171

引導[indou]
 引導・下炬(いんどう・あこ)導師が霊前に進み、引導作法を修し、松明を持って空中に梵字のアの字とそれを囲むように大きく円を描き、入滅(成仏)の証として故人の仏教教養の深さと徳の高さを試える下炬の文を贈る。
 *松明 松明は古くは葬列が夜行われた名残ですが、宗教的には闇路を照らす光明と意味づけられています。
 *下炬 火を下す意味で、古くは火葬の動作を意味しましたが、入滅(成仏)の証として行われます。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.235

氏 神[ujigami]
 神社神道の宗教教団で最大のものは、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会が中心になって結成された神社本庁です。約8万の神社のうち99・6%が神社本庁に加盟しています。
神社をしばしば「氏神/うじがみ」と言うことがありますが、神社は必ずしもある家に特有の神を祀っていたわけではありません。近世以降は地域を守護する鎮守の神、「産土の神」(うぶすなのかみ)を意味し、「明治初期には、全国の神社の数は、旧村落の大字村の数18万余に近かった」と言われるほど、地域共同体と密接な結びつきがありました。今、神道の信者である「氏子」の数の合計が日本人の総人口とほぼ等しいのは、各神社がそのエリアに住む人々を全て「氏子」とみなして計算されているからです。
 神社が教団のような形態をとったのは国家の管理を離れた1946(昭和21)年以降のことです。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.219

使用権(永代使用)[eidai-siyouryo]
一般にお墓を取得することを「お墓を買う」と言いますが、厳密に言えば 「墓地を使用する権利を取得する」ことです。
権利関係を見ると、墓地の土地は墓地の運営主体の所有物件で、利用者にそ の使用権があり、墓石は利用者の所有物件、となっています。  お墓の建立にあたっては、使用権入手費用(一般に「永代使用料」と言う)、墓石建設費が必要で、このほか継続的に管理料が必要です。 使用権の名称が「永代」となっていても、管理料の支払いが一定期間途絶えると使用権が消滅し、墓石は撤去され、遺骨などは無縁墳墓に合祀されます。(但し、改葬は縁故者調査や新聞による申し出催告など複雑な手続きを要し、費用もかかるため問題となっています。)
 改葬する際には、一般には、利用者自らで墓石を処分し、更地にして墓地使 用権を返還し、新たな移動先の墓地使用権を取得します。墓地使用権を返還する際には、取得する際に納めた使用権入手費用は原則として返還されません。むしろ墓石撤去費用などを請求されることが一般的です。(最近では入手費用の一部を返還する霊園もあります。)
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.159

葬儀での「お布施」お経料[okyouryo]
 葬儀において、僧侶は枕経、通夜、葬儀式などの法要を営むことによって法施を施し、遺族はこれに対して感謝して財施で応えるという関係にあります。
僧侶が法要を営むことはビジネスではなく、あくまで法施です。遺族も葬儀での「お布施」は法要執行への対価として支払うのではなく、あくまで財施として行うのだ、というのが本来の考え方です。
 「お経料」「戒名料」という表現は、対価としての料金という考えによるものですからふさわしくないとされています。遺族には「お礼」という気持ちが確かにあると思われますが、それを超えた意味があることを理解する必要があり、上書きはしたがって「お布施」とするのが正しいとされています。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.150

お斎「精進落とし」の意味[otoki]
 火葬後、または葬儀・告別式の終了後に設ける宴席を一般には「精進落し」と言います。
浄土真宗では「精進落とし」とは言いません。また地方によって、「精進上げ」「忌中祓い」「精進落ち」「お斎オトキ」「直会ナオライ」「仕上げ」などと呼ばれています。 関東では、通夜振る舞いや精進落としの宴席を「お清め」と呼ぶことがありますが、死穢シエを祓い清めるという意味ですから、あまり適切な表現とは考えられません。
 元来、魚や肉などを食べずに精進した中陰の期間に区切りをつけ、日常生活に戻ることから精進落としと言われ、魚や肉などの「なまぐさもの」が出されました。葬列を始める前に死者との食い別れの宴席を設けたこと、葬儀後に手伝ってくれた人にお礼の振る舞いをしたこと、の2つがこれに合体したものと考えられています。これが、各地から集まった人が長い間は滞在できないこともあって、火葬または葬儀・告別式後に行われるようになったものと思われます。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.111

 死者供養の仏事 (お彼岸)[ohigan]
 日本人は死者供養を大切にしてきた民族であると言えます。歴史的には、中陰の七仏事(初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日)はインドに起源をもちます。中国に仏教が伝わり、百ヵ日、一周忌、三回忌(満2年)の三仏事が加わり十仏事となりました。さらに日本で七回忌、十三回忌、三十三回忌が加わり、十三仏事となり、近世に十七回忌、二十五回忌が加わり、十五仏事となりました。 しかし、十五仏事は完全に一般化しているとは言えず、二十三回忌、二十七回忌などに回忌法要を営むこともあります。七回忌の後が十三回忌なのは七回忌の7年目であたるため、それに引き続く十七回忌は7の数字がつくからと言われます。五十回忌以降、50年ごとに行われる法要を遠忌と言い、宗派の祖師の場合などに限って営まれています。
 上記ほか、祥月命日(故人の命日)と月忌(月の命日)があります。また、お盆や春秋のお彼岸があります。
 遺された者が、生ある限り、亡くなった人のことを覚え、その生を大切にして、感謝して生きる、亡くなった人との関係をずっと維持しようとするのが日本人の特性の一つと言えるかもしれません。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.118

開 眼[kaigen]
開眼とは、智慧の眼を開くことです。すなわち、真理の法を悟ることです。
智慧の眼を開き、真理の法を悟れば、如来あるいは仏と呼ばれます。「仏作って魂入れず」ということわざがありよす。これは最もたいせつなことが欠けているという意味です。作られた仏像はもとは木であったり、金属であったり、石であったりします。ですから、仏像は魂を入れなければ単なるモノとしかみなされないでしょう。
「魂入れ」とは、仏像の仏たる理由である智慧の眼を入れることであります。 それゆえに仏像を作れば、仏像には開眼供養の儀式が行われます。 すなわち、仏像は開眼されて初めてモノから尊い仏(如来)となるわけです。このよう意味で、石塔や仏壇さらには位牌も、開眼供養を行わねばならないのです。 開眼供養がすんだ仏像等はいよいよ、礼拝の対象として信仰されます。そして人々は仏像等を信仰し、その功徳によってみずからの心が清らかになり、心の眼が開かれていくことになります。 仏像の開眼はみずからの心の開眼に通じるものです。 「開眼」に対して「開眼もどし」があります。これは今まで礼拝の対象となっていた仏像等を改修したり、新しいものにとりかえるときに行われる作法です。



●改葬にも許可証が必要[kaisou]
 「改葬」とは、いったん納めたお墓または納骨堂から、遺体や遺骨を他のお墓または納骨堂に移動させることです。
この際、遺骨が納められている地の市町村から「改葬許可証」を受け、移動先の墓地または納骨堂の管理者に提出します。
分骨する場合や分骨した遺骨を他に移動させることは改葬にはあたりません。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.158

戒名(法名、法号)の構成[kaimyo-kousei]
 戒名は本来2字で、中世までは貴人といえども2字であったと言われます。今では本来の戒名である法号の上に道号、さらにその上に院号がつけられ、法号の下に位号がつくという構成になっています。
○○院△△□□居士(大姉)−→○○院号△△道号□□法号(居士大姉)位号

●院 号 最上級の尊称と言われるものに院号(○○院)院殿号(○○院殿)があります。かっては一寺を建立するほど貢献した人に与えられる尊称で、皇室や摂関家に対して○○院が、またこれと区別するため武家に○○院殿が与えられました。 特に本家の主人のみにつけたとされます。院号より院殿号を上位とする慣習は、大名家に院殿をつけるようになった江戸期こ生まれたとされます。

●道 号 道号は元々、仏道に励み、これを究めた者への出世の称号で、住職などに与えられたものと言われます。

●法 号 本来の戒名(法名、法号)です。

●位 号 位階や性別を表すものです。成人(15歳以上)の場合、一般に信心の厚い者を信士・信女、より清浄な者を清信士・清信女に、仏門には入り剃髪染衣した者を禅定門・禅定尼に、四徳を備えた篤信の信者を居士・大姉に、より上位を大居士・清大姉とします。

 子供の場合、死産児に水子スイシ 乳飲み子に嬰児ヨウジ(嬰子)嬰女、
就学前の子供(特に2〜3歳)に孩児ガイジ(孩子)孩女、
15歳末満の子供に童子・童女、善童子・善童女とすることが一般的です。
就学前の子供は乳幼児を含め幼児ヨウジ・幼女とすることもあります。
子供の場合には院号、道号はつけないのが一般的です。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.148

 飾りの歴史[kazari-rekishi]
 歴史的には、自宅では棺の前に枕飾りを置いて死者を守り、葬儀当日に出棺、葬列を組んで寺院(あるいは火葬所の葬場)に赴き、そこに遺体を安置し、葬列の道具である野道具を立てかけて葬儀をしました。 この枕飾りと野道具の2種類の飾りが合体したのが、現在の祭壇と考えられます。
 最近、通夜が告別式同様に会葬者の弔問を受ける場に変化してきたことから、通夜でも葬儀・告別式と同じ祭壇を飾ることが多くなってきました。しかし、今でも通夜のときには祭壇を飾らないという地方があります。 もともと通夜は、遺族にとっては死を完全には受容したとは言いきれない、生と死の境界にある時間です。ここで正式の祭壇を飾ると死をはっきり認めたことになるというので避けられたのでしょう。通夜では喪服を着用しない、香典を持参しない、持参するなら「お見舞い」とする、などとされたのも同じ理由によります。
 通夜のときには棺の前に枕飾りをそのまま、あるいはそれを多少手直しした程度の飾りつけを行うことがあります。また、葬儀・告別式は寺院で行うため、自宅には「自宅飾り」を行い、寺院では別に「寺飾り」と称する飾りつけを行うことがあります。 飾りは、宗教宗派や地域によっても、あるいは、遺族の考えによっても変わるものですから、注意と確認が必要です。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.94〜95

仏教葬と火葬の起源[kasou-kigen]
 既に7世紀前半の聖徳太子の葬儀において仏僧が関わった記録がありますが、部分的な関わりでしかありませんでした。
 火葬は仏教の葬法と言われ、記録こよれば700年に僧道昭ときが最初とされています。しかし、考古学上は5世紀後半頃の遺跡から焼骨が発見されていることから、6世紀半ばの仏教伝来以前から日本でも火葬が行われていたことがわかります。
 人工的に遺体を焼却する葬法である火葬が日本人に受け入れられていくには、白骨化は成仏の徴とする、仏教による火葬の意味づけが必要でしたし、以後、仏教葬と火葬は深く結びついて発展していきます。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.24

香典返し(即返し・忌明返し)[kiakegaeshi]
 香典返しには大きく分けて「即返し(その場返し)」と「忌明返し」の2種類があります。「即返し」地域は関東・東北地方・東濃・三河に分布しており、近年増える傾向にあります。
 「即返し」は、もともとは葬儀での食事などの振る舞いの代用品として発達したものです。しかし最近では、忌明での返礼は名簿の整理などで大変なのに対し、香典と引き換えであれば渡し損ねもなく便利という理由から、増加の傾向にあります。 「即返し」の場合、一時は香典の金額を調べて、その金額に応じた商品を返すことも行われましたが、「香典の金額で返礼品を区別するのはおかしい」という理由で、今では一律が多くなっています。単価は2000円〜3000円が多く、中には4000円という地域もあります。結婚披露宴の引出物同様にチョイス・ギフト(カタログを渡され、会葬者が希望の品を選んで郵便で申し込む方式)も出てきました。 一方「忌明返し」は、三十五日あるいは四十九日の忌明を待って礼状を添えて返礼するものです。すぐ返すのでは失礼だということから、おそらく明治期に都市より慣習化していったものと思われます。香典の額と同額では相手の好意を無にするというので、半返し(二分返し。半額の商品を返すこと)、三分返し(3分の1の金額の商品を返すこと)が一般的です。
 この他、葬儀の余剰金を社会福祉関係に寄付するとか、遺児の養育費に充当するとかし、香典返しを行わないこともあります。社会福祉関係に寄付するときは市町村役場の社会福祉課が窓口となってくれます。香典返しを行わないときには、その用途を忌明の挨拶状に記します。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.136〜137

忌中札[kityu-fuda]
 玄関に「忌中」と書いた札を掲げることもあります。
死穢を他におよぼさないように告知し、遺族は死の穢れに染まっているのでこもっていることを知らせることからきたものです。現在では死者の出た家であることを告知するという現実的な意味が強くなりました。
 さまぎまな形式がありますが、簾を裏返しにして垂らし、その上に「忌中」と書いた紙を貼ることもあります。昔の死穢観念の名残であるとして用いないこともあります。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.84

●献花のしかた●[kenkanoshikata]
献花の常識
 @花が右、茎が左に向くように受けとり、祭壇に一礼します。
 A花を胸もとに捧げ、献花台の手前に進み祭壇に向かい一礼。
 B花を時計の針の方向に回し、花を手前にします。
 C花の持ちかたを、右手を手前下から、左手が茎の先を下から支えるように変え、そっと献花台に置きます。
 D黙祷または一礼します。
 E2〜3歩さがり、主催者側に一礼します。


香典の上書き[kouden-uwagaki]
 仏教葬儀の場合、四十九日までは「御霊前」、四十九日後は「御仏前」と書くのが正しいとされ、極端にはどの宗教でも葬儀の香典は「御霊前」と書いてよい、との説明がされることが多いようですが、これは俗説で、誤りです。
 浄土真宗では亡くなった方は即浄土に往生したのであり、「霊」は認めていませんので「御霊前」は用いません。また、「特にこだわらない」とするものの、曹洞宗などの禅宗では教義に「浄土」はありませんので「成仏以前」という考え方もなく、「御仏前」とするのが一般的です。死者に香典を出すのではなく「本尊である仏様に捧げる」という意味であるなら「御仏前」になります。 キリスト教でもカトリックは「御霊前」を許容していますが、プロテスタントでは否定しています。 こうしたことから言えば、「御香奠(香典)」「御香資」「御香料」は中立的な表現になります。また、キリスト教で「お花料」、神道で「玉串料」「御榊料」とするのは「御香料」などと同じ使い方です。
 会葬者の立場に立つと、必ずしも喪家の宗教・宗派を理解したうえで会葬するとは限りませんので、自らの宗旨で上書きを選択してもよいでしょう。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.134〜135

香典の歴史[kouden-rekishi]
 「香典」はかっては「香奠と書きました。「香を供える」という意味です。これから転じて、香を買う代金である「香典」「香資」「香料」になりました。
 仏教民俗学者の五来重氏は、元来は墓に香花(=樒)を捧げたことに由来するのではないかと推察しています。また宗教学者の藤井正雄氏は六種供養(仏を供養する華・塗香・水・焼香・灯明・飲食の6種)に由来すると説明しています。
 室町時代後期には武士が金銭香奠を出した記録がありますが、農村部において香奠とは、長い間、米などの食料をもちよることでした。その後、都市では明治期に金銭香奠が一般的になりましたが、地方で金銭香奠に移行し始めるのは大正期あるいは昭和初期からのことです。戦前までは米などの食料香奠もまだまだ残っていました。貨幣経済が発達するようになって、金銭香奠つまり香典、香資が一般的になりました。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.133

 三具足と五具足[mitu-gusoku]
 基本的な仏具で、香炉、燭台、花立て(花瓶)からなります。
 三具足では、中央に香炉、向かって右に燭台、左に花立てを配します。五具足は、中央に香炉、その両側に燭台、さらにその外側に花立てを配します。 燭台一対、花立て一対、香炉で五具足です。
一般には三具足を、法事など正式なときには五具足を用います。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.154

 四 華[shika]
 四華は四華花、死華、死花、四花、紙花などと書き、シカ、シカバナと言われます。
釈尊の死を悲しんで、沙羅双樹林が白変し、その遺体を覆ったとする故事に基づくとされています。
一般的には、白紙を細長く切り、横に細かい刻み目を入れて、細い棒に螺旋状に巻き付け、4本を一つの台に挿して、2台を一組とします。地方により作り方が異なります。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.84

四十九の餅[49-mochi]
 死者との食い別れという性格が色濃くあったものと思われます。
飲食は、死者の魂を鎮め、死の穢れに対抗し、これを祓う力があると信じられていたようです。柩を担ぐ人、湯灌する人、納棺する人、墓穴を掘る人、こうした人々は死穢に強く染まると考えられ、しばしばこうした役割を担う人へはご馳走が振る舞われました。
 四十九日の忌明に作る「四十九(日)餅」は、他界に転ずる死者の霊との最後の食い別れとも、忌明を期した清めの意味があるとも言われます。



中 陰 (七七日)[77-nichi]
 古代インドでは人間は輪廻転生すると考えられていました。誕生の瞬間が生有、生きている間が本有、死の瞬間が死有、死んで次の生を得る間の期間を中有あるいは中陰と呼び、中有は49日間であるとされました。この間、7日ごとに法要を行い、七七日を満中陰と言います。
 49日間は、死の穢れが強い時期ということで、遺族は祭などに出ることなく謹慎して家にこもります。これを「忌中」と言います。 四十九日が過ぎるとしたがって「忌明」となり、日常生活に復帰しました。
 この忌中も忌明も死穢観念から出ているものですが、一方では遺族にとっては精神的に打撃を受けている期間でもあります。
そこで遺族が日常生活から離れて死者の弔いに専念し、次第に精神的傷を癒し、日常生活に復帰するプロセスでもあると考えることができます。
7日ごとに集まり法要することは、 死者を弔うと同時に、周囲の人が遺族の悲しみを思いやる事でもあったと思います。
 忌明法要は三十五日で行われることもよくあります。
忌明法要をもって本来は「精進落し」となっていました。
 また、忌明で中陰壇を片づけますが、これを「壇ばらい」「壇引き」とも言います。
それまで使用していた白木の位牌は檀那寺に返し、 漆の塗位牌を作り仏壇に納めます。また神棚の白紙などを取り除き、神社へお参りすることを「晴詣り」と称して推奨されることがあります。
 「忌中」に対し、「喪中」は1年間(13ヵ月)を指します。
中国の儒礼じゅれい(儒教の儀礼)では三回忌を大祥忌と言い、それをもって日常生活へ復帰していたように、死後1〜2年の間は遺された者の死者への想いが息づいている期間でもあります。
 遺族の心理的なプロセスを考えると葬儀あるいは喪中は一周忌または三回忌あたりまで続いていると理解してよいでしょう。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.119〜120

四本幡(シホンハタ)[4-hata]
 4本の幡(旗)をまとめて並べる場合と、柩の前に2本、後ろに2本と分けて並べる場合などがあります。幡には梵字(古代インドで使用された文字)を書いたり、「諸行無常」「是生滅法」「生滅々已」「寂滅為楽」などの偈文(仏教の教えを簡潔に述べた詩)を書いたりしました。
元は柩の四方を囲んだとも、墓の四方に立てたとも言われます。
 墓を結界する(魔物が入ってこないように境界を区切る)と共に死者の滅罪に効果があると信じられたものです。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.145

納棺以前に行うこと 神饌[shinsen]
 納棺する前に行う主なことは次のとおりです。(一般的なことは除く)
1.亡くなると、まず神棚と祖霊舎ソレイシャ(ご先祖を祀るところ)に帰幽(亡くなること)したことを奉告し、その前面に白紙を貼る。 2.病気平癒など祈願した神社があれば、祈願を解き、また、産土神社(土地の氏神様)に帰幽の奉告をします。つまり、その神社に代参(喪主の代わりとなる人)を派遣するか遥拝(遠くから礼拝)します。 3.葬儀執行のため、斎主、副斎主、祭員、伶人(雅楽を奏でる人)などを委嘱します。 4.各祭について幣帛(進物)、神饌(食物)、玉串その他、その数量程度を協議決定します。 5.霊璽(位偶に相当)、墓誌、銘旗、墓標等の揮毫を依頼します。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.230

頭陀袋[zutabukuro]
 かって故人に着せる死装束は、故人とゆかりのある女性の手によって、糸尻(いとじり)を止めずに縫われました。
僧や巡礼者の姿になぞらえ、白木綿に経文を記した、明衣、浄衣とも言われる経帷子(きょうかたびら)です。経帷子を左前に着せ、三角頭巾を額にあて、手甲をつけ、脚絆を巻いて、白足袋にわらじを履かせ、六文銭を入れた頭陀袋を首にかけ、杖を手にし、という西方浄土に旅立つ旅姿をとります。
浄土真宗系では冥土の旅を否定しますので、こうした服装はせず、白衣や遺族心づくしの晴れ着を着せます。そして胸に組んだ両手には木製の念珠(数珠)をかけます。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.87

 野辺の送り (善の綱)[zennotuna]
 墓地または火葬場まで列を組み死者を送ることを「野辺の送り」と言います。
「野辺送り」「葬列」「渡御トギヨ」とも言います。大正・昭和期に告別式が発生するまでは葬送儀礼の中心となっていました。 野辺の送りにはさまぎまな様式がありますが、松明、提灯、六道を先頭にして、旗(銘旗)、龍頭、花籠、香炉、四華、膳、位牌、天蓋、柩などと続きます。葬列での役割は死者との関係によって決定されます。「善(縁)の綱」とは柩につなげた白い布のことで、これを手にするのは近親の女性や子供が多かったようです。位牌を手にするのは喪主と決まっていました。また死者に供えた枕飯は喪主の妻が持つとされています。
 江戸時代までは葬儀は夜に行われたことが、松明が先頭に立つことでわかります。村の辻で柩を回したり、帰路は往路と道を変える、埋葬に使用した鍬、草履を捨ててくるなど、死霊が家に戻らないようにと、さまぎまな呪法も行われました。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.182

葬祭ディレクター[sousai]
 葬儀の主体はあくまでも故人であり、葬儀の責任は故人を送る遺族にあり、また葬儀を執行する僧侶、神職、神父、牧師などの宗教者にあり、さらに、参列する人々によって構成されます。その祭祀空間の場を設営し、遺族をサポートする責任を負うのが葬祭ディレクターをはじめとする葬祭業者です。
 私たち葬祭ディレクターは、遺族や宗教者に学びつつ、その意向を支援する立場で共に葬儀を実現していくのですが、業として専門に葬儀にあたる責任を負っています。
 社会的に課せられる責任は大きく、それゆえにしばしば厳しい批判に晒されます。このことに自覚的でありたいと思います。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.280

 龍 頭(タツガシラ)[tatu-kashira]
竹竿の先に龍の頭をかたどったものをつけたものです。
 龍の口の下に天蓋を下げたものや魂を入れる紙袋を下げたようなものもありました。
 死者の霊が荒らぶる魂であることを示したという解釈(五来重氏)と、死者の霊が龍のように昇天することを願ったとする解釈(藤井正雄氏)があります。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.146

茶湯器(ちゃとうき)[chatouki]
お茶を供えるための道具です。
●高 杯(たかつき)
 菓子、果物などを供えるための器です。菓子、果物などを供えるときは半紙を敷いて供えます。
●霊供膳(りょうぐぜん)
 仏壇に供える小型の本膳。供えるときは箸が仏前に向くようにし、精進料理にします。浄土真宗にはありません。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.156

通夜の準備[tuya-1]
●飾りつけの確認をします。
●受付、案内、供養品渡し、料理の手配、などの役割の確認をします。
●遺族その他の着席場所を確認しておきます。
●夜間ですから照明も含めた案内の確認をします。
●宗教者と進行を確認しておきます。
●翌日の確認を行います。(料理、焼香順位、弔電、等)
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.98

通夜振る舞い[tuya-2]
 通夜振る舞いにもさまぎまな形があります。酒食を供するのではなく、弔問客にお菓子をもって帰ってもらうもの、お茶だけを供するところ、食事券(寿司屋などの)を渡すものなど地方により異なります。
 通夜振る舞いにもさまぎまな形があります。酒食を供するのではなく、弔問客にお菓子をもって帰ってもらうもの、お茶だけを供するところ、食事券(寿司屋などの)を渡すものなど地方により異なります。一般の弔問客には酒、砂糖などの詰合わせを渡して振る舞いに代えることもありますし、翌日の葬儀・告別式のときと同じ会葬返礼品(粗供養)を渡すだけにすることもあります。 通夜振る舞いにもさまぎまな形があります。酒食を供するのではなく、弔問客にお菓子をもって帰ってもらうもの、お茶だけを供するところ、食事券(寿司屋などの)を渡すものなど地方により異なります。
 食事を供する場合には、人数がその場にならないとわからないので、弁当などよりは盛り合わせ料理のほうが適しています。 振る舞いの方法は地域の習慣を情報として提供し、遺族の選択に任します。一般的には、シュガー、お茶等が、ここ東濃地方では多い。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.99

在家の葬法( 剃 髪 )[teihatu]
 在家の葬法は亡僧喪儀法から発展して制度化されたものですから、死者にお経を読んで仏の覚りを得させ、僧にする印として剃髪し、戒名を授けます。
引導を渡して成仏させるのです。
これは死後に僧侶にするので「没後作僧」と呼ばれます。 現在の仏教葬儀の原型はここにあります。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.32

●天蓋(テンガイ)[tengai]
 寺院には、僧侶の座る席の上に立派な天蓋がありますが、葬列で用いられたのはほとんどは布製や紙製で、わずかに木製もありました。
天蓋は柩の上にかざし、死者の滅罪を願い、極楽往生することを願ったものと言われています。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.145

奠湯、奠茶(てんとう、てんちゃ)[cha-tou]
 これから死者が悟りの世界に入るに際して行う儀礼。
両役の憎は霊前に進み、焼香一拝の後、茶湯器をとって薫香加持をし、これを供えてはなむけの言葉を捧げ、自席に戻る。
 (砂糖湯と抹茶)
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.234

「精進落とし」(直会)[naorai]
 火葬後、または葬儀・告別式の終了後に設ける宴席を一般には「精進落とし」と言います。ただし、浄土真宗では「精進落とし」とは言いません。また地方によって、「精進上げ」「忌中祓い」「精進落ち」「お斎」「直会」「仕上げ」などと呼ばれています。
 元来、魚や肉などを食べずに精進した中陰の期間に区切りをつけ、日常生活に戻ることから精進落としと言われ、魚や肉などの「なまぐさもの」が出されました。葬列を始める前に死者との食い別れの宴席を設けたこと、葬儀後に手伝ってくれた人にお礼の振る舞いをしたこと、の2つがこれに合体したものと考えられています。
各地から集まった人が長い間は滞在できないこともあって、火葬または葬儀・告別式後に行われるようになったものと思われます。 この宴席の意味は大きく2つあります。
l.僧侶などの宗教者、手伝ってくれた方への感謝の席
2.故人を偲んで食事をし、話をし、交わる席地方によってさまぎまな呼び方があるのも、どの意味を強調するかによって変わっているものと思われます。 このように、現在の宴席はいくつかの意味が合体したり、変容したものですから、現代的な表現をとるなら「感謝の会(席)」「偲ぶ会」となるでしょう。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.111

 野道具 [no-dougu]
墓地または火葬場まで列を組み死者を送ることを「野辺の送り」と言います。
大正・昭和期に告別式が発生するまでは葬送儀礼の中心となっていました。 野辺の送りにはさまぎまな様式がありますが、松明、提灯、六道を先頭にして、花筒、旗(銘旗)、龍頭、四旗、花籠、菓子、四華、香炉、膳、位牌、天蓋、柩、墓標、灯籠、などと続き、これを野道具と呼んでいます。
葬列での役割は死者との関係によって決定されます。



拾骨(喉仏 ノドボトケ)[nodobotoke]
 遺体を火葬(荼毘と言います)した後の拾骨を骨上げ、収骨とも言います。遺族による拾骨は日本独特の儀礼と言われています。このため欧米では骨の原型が残らない骨灰になるのに対し、日本では形がきれいに残るように焼くことが大切とされています。
 拾骨は、昔は1人が箸でもった遺骨を順に次の人に渡していく形だったようですが、現在では2人で一組になって遺骨を拾います。組み合わせの違う(竹と木)2本の箸を使って行います。また、男性が左、女性が右に箸をもち、組になって拾骨するところもあります。 「箸渡し」は「箸」と「橋」の音が共通なところから、故人をこの世からあの世へ、三途の川の渡しをしてあげるという思いからきていると言われています。皆で送ってあげようという気持ちの現れでしょう。
 拾骨は関東など全部の遺骨を拾骨するところ、関西など「喉仏」(舎利とも言う。実際は第二頸骨)や歯骨など一部を拾骨するところ、また胴骨と歯骨とを分けて拾骨するところなど、地方差があります。全部拾骨の場合には、足、腕から順に頭部まで拾い、最後に喉仏(白骨)を拾います。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.110

野辺送り[nobeokuri]
 野辺送りの前日に穴堀役が必要、現在は火葬が100%の為に遺骨を納めるだけの穴であるが、昔は、スコップで2メートル位掘り下げました。掘った穴はきれいにはき清め、穴の両端から荒縄を張り、中央に鎌をぶら下げておく。(魔除けの為) 此れで前日の作業が半分終了。後は竹矢来、花筒の為の竹切り作業だけです。 死装束は縫い糸の端は結ばない。仕立てのためのものさしは、葬式専用の「二尺のサシ」をつくってくれた。(和服に使うサシとは若干寸法が違う) 野辺送りはまさしく冥土への行列だ。葬列を歩く者は後ろをふり向いてはいけない、葬列が墓に着くと、まず最初に大松明の火から墓地にある六地蔵のろうそくに火をともす。 つぎに蓮華台と呼ぶ台のまわりを、輿(棺桶)を担いで時計と逆回りに三回まわってか ら台に据え、行列で持ってきた花や葬具を立てかけ、棺を覆う。 ここで僧侶による読経と焼香が行われ引導が渡される。 蓮華台の棺桶を運び込み、蓋を開け最後の別れをする。 惜別の声があがる。これで埋(イ)けますと、グワィと決めて穴のなかに埋ける。 棺を穴のなかに静かに入れた後、喪主が「埋(イ)け初め」をする。 鍬を刃が上になるように逆さまに向けてかき寄せるようにして土を寄せる。 埋け初めを終えると遺族たちは家にもどる。 あとは穴堀りの仕事になる。棺桶を棺巻でくるみ、棺の蓋の上に大きな石を置き、そして埋める。 土は盛り上げ、葬列のとき持ってきた墓標や葬具、飾りもので土盛りの上を隙間なく被って又その外に竹で編んだ矢来を張り巡らせる。これを「斎垣イガキ」と呼ぶ。獣がきて墓を掘り返さないための工夫である。 最後に土中のホトケの頭の位置あたりに墓標を建て、その周りに、塔婆、位牌、御膳、 供え物、草履を置く。墓標に一升瓶で汲んできた水をかけてやり、線香、ロウソクを供 え、これで告別式のすべては終わる。
これは土葬をしていた頃の習慣である 


花籠 (ハナカゴ)[hanakago]
 葬儀で地域の人に食事を振る舞うという習慣は、江戸時代から全国的にすでに行われていました。
葬列の出発の際に花籠に白紙に包んだ小銭や菓子を入れ、これを近隣の人に振る舞い、供養としたなどもすでに見られました。このおりに小銭は、故人の年齢の数だけ入れたそうです。
粗供養の起源になるとも考えられ、現在東濃地方の一部にもこの習慣は存続しています。


花立て[hanatate]
遺体の枕元に、上に白布を敷いた小机か、白木の台を用い荘厳(=お飾り)します。枕飾りのときに置く仏具、供え物は宗派や土地により異なります。一般的には三具足を備えます。
香炉を中央に、遺体に向かって右側に燭台を置き、左側に花立てを配します。香炉には線香を1本立て、燭台には白の一本ロウソク、花立てには一本樒を飾ることが一般的です。これらは1本が原則とされます。
但し、浄土真宗ではこれを俗信として排し、線香を立てないで適当な長さに折った線香に火をつけ香炉に横に寝かせるなどの違いがあります。場合により、花立ても使用しないことがあります。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.83

 花環・生花 [hanawa]
 供花は、全国的には花環または生花、関西地方などでは花環の代わりに樒(しきみ/しきび)が用いられます。
 関係者から供花の申し出がありますが、この扱いについては事前の確認が必要です。供花や供物を辞退するという遺族もいますから、供花をそもそも受け付けるのか、受け付けるとしたらその種類(生花だけ、花環と生花、など)、贈り手の名前の表示をどうするか、といった方針を事前に確認しておく必要があります。 式場によっては花環や樒を置く場所の制限もあります。 生花や花環などの供花の配列順はしばしば問題になります。勝手に判断しないで遺族の考えに従って行うことが必要です。最近では、問題が生じないようにと、芳名板にアイウエオ順で贈った人の名を一括して掲示する方法がとられることもあります。 また、供花は生花のみを受け付け、その生花代金を祭壇や式場内外の装飾花の作成費用にあて、供花してくれた人の名は芳名板に一括して記す方法を採用することもあります。
 生花については、それぞれ別の生花店から納められるとバラバラになりデザイン的にも美しくありませんから、施行業者が一括手配するほうがよいでしょう。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.102

諷経 フギン(内諷経)[fugin]
 今は葬儀式の中に入っていますが、かつては、「剃髪」「授戒」は納棺に先立って行われ、納棺時には「入棺諷経」を行い、「龕前念誦」は逮夜(大夜)念誦と呼ばれたように火葬または埋葬の前日に行われたものです。
「挙龕念誦」は、挙龕とはすなわち起龕のことですから、葬列の出発に際して行われました。 このように葬儀の一連の段階で行われたものが組みこまれ、現在の葬儀式を構成しています。
入棺諷経、龕前念誦、挙龕念誦は「内諷経」と呼ばれ、葬儀式の前段階を構成します。引導法語は葬列が寺院(葬場)に到着したときに行われ、次いで山頭念誦が行われ火葬(または埋葬)となったものです。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.250

 神 道 (仏法への対語)[bupou]
神道は、日本民族の古来の自然信仰を基礎としており、神秘で畏敬(イケイ)の念を抱かせるものを広く神として信仰の対象としてきました。したがって、神社にはさまざまなものが神として祀られていて、「八百万の神」と言われるほど多彩です。自然発生的に生まれた信仰で、遅くても弥生時代に原初的な形をとり、古墳時代に民族宗教としての形態を整えたと思われます。
「神道」という語は、「日本書紀」(8世妃)に初めて現れますが、これは外来宗教である「仏法」(=仏教)への対語として在来の民族宗教を自覚してのものでした。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.218

枕団子/枕飯[makura-dango]
 供え物には、浄水・枕団子(三方に白紙を敷いて6個の団子を載せる)、枕飯(一膳飯、故人愛用の茶碗に丸く山盛りにして箸を1本立てる)などがあります。
しかしこれらは、浄土真宗糸では遺体に供えるものではなく不要とされています。
(枕団子セット)有り・当社にて依頼があれば製作持参します。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.83

 湯 灌  ゆかん[yukan]
 湯灌とは納棺する前に遺体を洗い清めることです。遺体を洗い清める習俗は世界各地に見られます。
 古い湯灌の形は、病院での看護婦による死後の処置(清拭セイシキ)の登場によりほとんど姿を消し、現在、都市部で行われている「湯灌」は、巡回老人入浴サービスから転じた業者の新しいサービスです。 古い湯灌は、盥(タライ)に水を入れておき、それに湯を加えた温水を用いて遺休を洗浄しました。通常適温にするのにお湯に水を加えますが、これと逆の方法をとるので「逆さ水」と言います。作法としては、新し柄杓を用いて遺体の頭から温水をかけるというのもありました。
 近世以降は、男性の血縁者が茶碗酒(湯灌酒)をひっかけながら行うとか親族の女性が行うなど、近親者の役割とされてきました。しかし古く中世には、湯灌は聖(ヒジリ)と呼ばれた宗教者が行ったと言われます。中世末期までは湯灌は授戒や剃髪と一連の作法で、死者の霊魂を浄化するために行ったとされています。 湯灌の作業中に、読経または念仏が行われたこともあります。 湯灌には、座棺に納棺しやすいように死体硬直を解くという実用的効果もあったと思われます。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.183

黄泉の国 (ヨミノクニ)[yomi-kuni]
 「古事記」には死後の世界である「黄泉の国」についての記述があります。
そこは腐乱した死体に蛆(ウジ)がたかる汚い世界として描かれています。 死の世界は恐ろしく、生きている者たちを引きずりこむ力をもったものという考えが出ています。つまり死は穢れており、死霊は生きている者を死の世界に引きずりこもうとする恐ろしいものだと考えられていたのです。
 古代の葬儀観には、死者を大切にするという考え方と死を穢れているものとして恐怖する考え方、この矛盾する2つの考え方が併存しているのを見てとることができます。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.20

神葬祭−納棺以前に行うこと(霊璽レイジ)[reiji]
 納棺する前に行う主なことは次のとおりです。(一般的なことは除く)
1.亡くなると、まず神棚と祖霊舎ソレイシャ(ご先祖を祀るところ)に帰幽(亡くなること)したことを奉告し、その前面に白紙を貼る。
2.病気平癒など祈願した神社があれば、祈願を解き、また、産土神社ウブスナ(土地の氏神様)に帰幽の奉告をします。つまり、その神社に代参(喪主の代わりとなる人)を派遣するか遥拝ヨウハイ(遠くから礼拝)します。
3.葬儀執行のため、斎主、副斎主、祭員、伶人(雅楽を奏でる人)などを委嘱イショクします。
4.各祭について幣帛(進物)、神饌(食物)、玉串その他、その数量程度を協議決定します。
5.霊璽レイジ(位牌に相当)、墓誌、銘旗、墓標等の揮毫を依頼します。
(依頼により全て双葉葬祭ではとりそろえます。)
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.230

 六 道(ロクドウ)[6-dou]
 篠竹に小ロウソクを6本立てたものを言います。
中には8本あっ2本は葬列に先行して辻に立てるところもありました。元は葬列の先頭の案内の灯明だったと思われます。しかし、死者は生前の行いによって六道のいずれかに行くとされ、たとえいずれに行っても六地蔵に助けてもらおうという地蔵信仰が六道ロウソクになったと思われます。
今、祭壇の上部両側に6本の灯明が飾られるのは六道の名残です。
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.146

 死装束(六文銭)[rokumonsen]
 かつて故人に着せる死装束は、故人とゆかりのある女性の手によって、糸尻を止めずに縫われました。僧や巡礼者の姿になぞらえ、白木綿に経文を記した、明衣、浄衣とも言われる経帷子です。
 経帷子を左前に着せ、三角頭巾を額にあて、手甲をつけ、脚絆を巻いて、白足袋にわらじを履かせ、六文銭を入れた頭陀袋を首にかけ、杖を手にし、という西方浄土に旅立つ旅姿をとります。
(死者の罪業を軽減する為に、冥土へ死者に持たせてやる紙銭・陰銭のこと)
碑文谷創『葬儀概論』1996(株)表現社p.87

卍は何ですか? [manji]
 卍は吉祥をあらわす記号です。万字、萬字とも書きます。
 ヒンズー教の最高神であるヴィシュヌ神、あるいは、その化身のクリシュナ神の胸には、「幸運の子牛(シュリーヴァトサ)」と呼ばれる巻き毛があります。
これが仏教にも取り入れられて、紋様、図案化したものが卍といわれています。
 仏の体には、すぐれた体の特徴として三十二相があります。
その中の一つに、胸には卍があります。経典には、仏の髪の様子を「吉祥な子牛のような、幸運な(スヴァスチカ)、喜ばしく巻いた、伸びやかな髪」と言いあらわしています。
また南インドのアマラーヴァティーから出た仏足石には卍が書かれています。
 この卍の意味は、吉祥海雲(めでたいことが海や雲のようにある)とも、また吉祥旋(めでたい、喜びの渦巻き)ともいわれています。 こうして卍は仏教、あるいは寺院の記号、標識として用いられています。
 また卍の記号は世界の各地で見られ、太陽、電光、流氷などがその起源といわれています。
あるいは、卍は太陽を象徴するものではなく、古代インドの幸運という意味のアショーカ文字を組み合わせたものという説もあります。
 右旋回か左旋回かについては、ヒンズー教では右旋は男性神、左旋は女性神をあらわしています。ナチスのハーケンクロイツは左旋です。


輪袈裟[wagesa]
日本で多く用いられる袈裟の一種
天台宗・真言宗・修験道の僧侶が、山野での修行や作務の際に用いた。
後に日本仏教の各宗派の間に広く用いられるようになった。
安江良介『仏教辞典』1991(株)岩波書店p.855

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